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郷土資料館周辺の「第一回、再発見・江別探訪」に参加しました [我がまち江別]

昨日6月27日は、江別資料館主催の「第一回、再発見・江別探訪~郷土資料館の歴史・文化・街並みを探訪しよう~」があったので参加しました。(-^〇^-)

集合場所は、以前、紹介した江別市郷土資料 (江別市緑町西1丁目38)です。予定は、スタート9:00~ゴール11:45頃


今日は、朝から晴天です。日中の最高気温の予想は27°になるとか。(-_-;)

ペットボトルの水とNikon J1を持ち、折りたたみ自転車のマイチャリで行きます。(^^♪

定員50名に対して40名参加とのことです。

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コースは、飛烏山周辺の散策ということで、江別市郷土資料館(スタート)→江別第三小学校→競馬場通り→三十三観音→江別兵村と十二戸・十三戸→子安観世音と八葉峰寺→水天宮さまと石狩大橋→モショッケ川→飛烏山→江別市郷土資料館(ゴール)

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江別市郷土資料館についも、館内の見学はありませんでしたが、簡単に説明ありました。(以前、ブログで館内は紹介したので省略)


【江別第三小学校】

江別市郷土資料館を出ると、正面にあるのは、江別第三小学校です。

1929(昭和4)年にマンモス校の分離校として生まれました。木造平屋で教室12室に児童は664人でした。ちなみに平成23年の児童総数は306人です。

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1957(昭和32)年には、円形校舎15教室が落成。この円形校舎は珍しく、中央に螺旋階段、教室は入口側に黒板がある扇形の配置になっているそうです。

当時は近代的モデル校舎として、見学者も多かったとか・・・現在は、さすがに古さを感じますね。(T_T)


【競馬場通り】

江別市郷土資料館と江別第三小学校の間にある道路が、全長400mの競馬場通りだそうです。

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私は知りませんでした、競馬場通りを北へ直進すると、飛烏山公園にぶるかりますが、飛烏山公園こそ、かっての「江別競馬場」だったのです。

( ̄▽ ̄;)!! 江別に競馬場があったとは・・・それで競馬場通りと言うのですね。

国道12号線へ向かうと、地下歩道がありますが、そのプレートには「競馬場通り地下歩道」と書かれています。

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この地下歩道は、小学校があるので作ったのですかね?ちょっと暗くて、利用するには怖いかも。恐(T_T) 


【三十三観音】

1915(大正4)年頃から1943(昭和18)年頃まで、丘一帯に楕円形の遊歩道があり、道に沿って「三十三観音像」が配置されました。

現在、真言宗成田山 光雲寺(江別市緑町西2丁目2)境内には、三十三観音が移転安置されています。


写真が第一番(奥)と第二番(手前)観音で、向かって右側に三十三観音が並びます。

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三十三観音の由来は、「四国道・三十三観音巡りの旅」は、幕末頃まで東北南部からでも往復70日余、伊勢路を加えると80日を超えて費用も莫大になるので、貧しい庶民は「ミニ」で間に合わせようとしたとか。(-^〇^-)


三十三観音と反対の左側には、四国八十八ヵ所石像が並びます。

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奥にあるのが、第八十八番(左)と第一番(右)です。

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【十三戸・十二戸】

開拓使は、1869(明治2)年に「移民扶助規則」を発布し、北海道への移民希望者に対して、移民奨励金を与えるなど移民推進策を実施しました。

1878(明治11)年に10戸が入植し、その後に分家があり12戸になり「十二戸」と、第2次は、1884(明治17)年東北地方から75戸が入地した内の13戸が現在の緑町に入地し「十三戸」と呼んだそうです。へー何とも単純ですね。(^┰^;)ゞ

江別の住人は現在でも、「十二戸」、「十三戸」と、呼んでいるそうです。

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これは、開拓使の歴史としては分かるのですが、あくまでも地域の呼び名なので・・・

私も写真は撮ったものの、ブログに載せても微妙ですよね。m(_ _)m

【子安観世音】

1930(昭和5)年、江別市内大川通りの石狩川にあった渡船場「重兵衛渡し」で、石狩川右岸の浅瀬で水遊びした40名程が帰路、渡し船が転覆して、小学生ら10数名が水死したという痛ましい事故がありました。翌日、教え子の搜索に加わった教師も殉職・・・(T_T)

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子安観世音菩薩像は、それを弔うため1934(昭和9)年、事故現場左岸に建立されましたが、バイパス工事などの関係で、1996(平成8)年、真言宗高野山 八葉峰寺(はちようぶじ)(江別市緑町東3丁目73 )へ移設安置されました。

【水天宮】

写真の奥に、石狩大橋があります。

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石狩大橋の手前にあるのが、「石狩大橋水天宮」と呼ばれています。

1920(大正9)年に完成した石狩大橋の建設工事の安全祈願して、作業員が簡単なお札を祭ったのが起源と云われています。

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久留米市の水天宮本庁から正式な水天宮のお札を賜ったのは、1996(平成8)年と最近のことなんです。

【モショッケ川】

水天宮の裏手に位置します。現在は、モショッケ公園として、その名を残しています。(-^〇^-)

モショッケ川は、野幌丘陵が石狩川に頭をぶつける、その際先端部に河口があります。現在は、埋め立てられ川の面影はありませんね。モショッケ公園が川底に位置するそうです。

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モショッケ公園には、パークゴルフコースがありますが、整備されてなく、利用者はいないそうです。(-_-;)

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写真の奥が、少し高くなっていますが、昔の王子製紙の社宅があったとか、でも、モショッケ川は水害が多くて大変だったそうです。


【飛烏山】

散策の最後は飛烏山です。

1890(明治20)年に屯田兵第3大隊長として江別に着任した野崎貞次少佐により名付けられたと言われています。

飛烏山(あすかやま)は鳥ではなく烏(からす)だそうです。


飛烏山(旧競馬場)と書いてます。

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おー、競馬を思わせる写真ですね。(-^〇^-)

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ちなみに、奥さんに、飛烏山は昔、競馬場だったと教えたら、「ばんば」かい?だって、いえサラブレットだよ。(^^ゞ

かつてこの丘には、江別神社(現萩ケ岡)の前身であった飛鳥山神社が建立され、その神社祭に草競馬や催し物が行われていたそうです。

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1928(昭和3)年には、正式な馬場が設けられ、地方競馬が行われていたが、1934(昭和9)年に元江別の方へ移り、戦時中は町民の空襲避難所や家庭菜園に使われました。

1950(昭和25)年からは、運動公園として整備が進められ、野球場・陸上競技場・テニスコート・青年センターなどの施設が造られました。

野球場です。

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野球場の奥にあるのが、「おやじエクササイズ」に出てくる江別市青年センターです。


飛烏山公園の野球場横に、(メ・ん・)? 江別強震観測施設だそうです。

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そんなこんなで、江別市郷土資料館(ゴール)に戻ってきました。

今回は、「第一回、再発見・江別探訪」ということで、第二回はバスを用いて、開拓史を巡る予定とか、詳細は8月頃に発表だそうです。

天気が良くて、暑さで、ちょっと疲れましたね。(^^ゞ

帰りは、駅前のおやき屋さんで、あんとクリームを買って帰りました。

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このおやき屋さんは、昔からあるのですが、看板も出てなく、営業中ののぼりだけです。まあ、知ってる人しか買いに来ないので問題ないんでしょうね。(-^〇^-)

1個90円です。

以上、「第一回、再発見・江別探訪」でした。

 


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