SSブログ

明治時代の旅客列車や所要時間、運賃 [道民のオキテ]

過去2回に渡り、北海道初の鉄道が開通してから明治25(1892)年~明治44(1912)年当時の道内鉄道線路図を調べてみましたが、今回は完結編で、当時の旅客列車や所要時間、そして運賃に関してです。

明治時代に本州から北海道へ移住して来ようとすると、当時は、青函連絡船で津軽海峡を渡り、7100形の義経号や弁慶号のような最高速度50km/hの蒸気機関車に牽引された三等客車に揺られてやって来た事を想像しながら調べてます。

まずは、北海道初の鉄道である幌内鉄道が後世に語り継がれるのは、この7100形蒸気機関車の存在が大きいので、そんな当時の蒸気機関車からです。

【アメリカから輸入された蒸気機関車】

北海道初の鉄道が開通(手宮~札幌を走り始めた汽車)、明治13(1880)年9月28日、2両の機関車(義経号、弁慶号)とレールなど資材を積んだ帆船トベイ号が小樽に入港。ただちにレールの敷設作業と並行して機関車の組み立てが行われましたが・・・

DSC_8136.JPG

上記写真、7100形:しずか号(小樽市総合博物館)

義経、弁慶などに続いて、6番目にアメリカから輸入された同形の蒸気機関車が「しずか号」で、手宮工場で組み立てられ、手宮-幌内間で活躍しました。本州を走ってた機関車はイギリス型だったので、アメリカ型が日本に輸入されたのはわずかにすぎません。機関車番号の7100形が付いたのは明治39(1964)年の鉄道国有化以降です。

【7100形の特徴】

ダイヤモンド型(ダイヤモンドスタック)と呼ばれる巨大な煙突、動物の接触に備えたカウキャッチャー(排障器)、そしてボイラーの上にはカランカランと鳴る鐘など、西部劇映画に出てくるような機関車です。愛称で義経、弁慶、比羅夫、光圀、信廣、そして、義経の側室・静御前から紅一点として与えられたのが「しずか」になります。

巨大な煙突は、アメリカでは石炭ではなく薪を用いたため、火の粉が、煙突の内部で渦巻かせて下に落とす仕組みになっています。したがって、石炭を燃料としている北海道で走らせるには意味のない形の煙突です。(後に単純なパイプ型に改装されます)

先進的な空気ブレーキ―を採用している事が義経と弁慶の特徴として語られますが、空気ブレーキは最初の2両だけで、残りは旧来の蒸気ブレーキで、義経、弁慶も取り扱いの問題か、後に蒸気ブレーキに改造されてます。

【7100形の晩年】

大正12(1923)年、義経を復元し東京の鉄道博物館で展示することが企画され、北海道にあった機関車が発送されます。途中、栃木県・黒磯駅まで来たところで関東大震災が発生し、そのまま10年以上も放置されますが、昭和10(1935)年になってようやく復元に着手されます。ところが、車体各所に刻印された製造番号から義経では無く弁慶である事が判明します。現在、さいたま市の鉄道博物館に展示されている弁慶号です。

DSC_8136-1.JPG

2012年に鉄道博物館で弁慶号に出会ってるのですが、そんな経緯を知らずに見てるので、面白いと感じたカウキャッチャー(上記写真)しか撮影してません。

では義経は何処に行ったのか?大阪の帝国車両工場内で使われていたことがわかり、原形とはほど遠い改造がなされてましたが、昭和27(1927)年の鉄道80周年記念に合わせて自走可能な状態にまで復元、動態保存されました。大阪の交通科学博物館に展示されてましたが、2016年春にオープンする京都鉄道博物館に既に移動しています。復元作業中に確認された車番から本当に義経かの議論もあったようですが、動態保存されてるのですから何だってOK!素晴らしい事です。

そして、しずかは、日本製鋼所室蘭製作所で、こちらも改造された形で見つかりましたが、昭和27(1927)年に国鉄に返され苗穂工場で修復され、昭和37(1937)年に手宮(鉄道博物館)に帰って来ました。このように明治前期の古典的機関車が1形式で3両も保存されてるケースは、国内でほかに例がありません。

【開拓使号:最上等客車】

明治13(1880)年、トベイ号で輸送された義経、弁慶とともにアメリカから輸入された客車は8両、その1両が最上等客車で、長さ10mの最上等車は外部の両側に「開拓使」と縦書きされてます。

DSC_8138.JPG

内部は、定員42人で、中央の両側には鏡をかけ、卓は2脚、トイレ、飲水器、ストーブ、ランプなどが備えられていました。おもに開拓使や明治政府の高官、貴族などの専用車両として使用されました。さいたま市の鉄道博物館に保存されています。

DSC_8138-1.JPG

上記写真、開拓使号の模型(小樽市総合博物館)

【3等級制および2等級制】

一等車および二等車は、時期により3等級制(1960年以前)および2等級制の時代の二つに分類されます。鉄道開業の際に客車は3等級とされ、上等・中等・下等に区分しましたが、明治30(1897)年11月に一等・二等・三等へ変わりました。車体表記・形式記号は、一等車はイ、二等車はロ、三等車はハとなっています。

2等級制時代に変わり一等・二等のみの2等級制に移行しました。旧二等車と旧一等車は統合されて新しい2等級制の一等車になり、旧三等車は二等車となりました。車体表記・形式記号は一等車が「ロ」、二等車が「ハ」となります。

先程紹介した開拓使号は3等級制当時に最上等客車と表現しているので、上等車(一等車)のさらに上という扱いの様です。トベイ号で輸入された残りの客車7両、上等車(一等車)が2両、5両が並等車(普通車)です。ここで3等級制に無い並等車の表現が出てきましたが、どうも3等級制であった内地(本州)の鉄道と異なり、上等車(一等車)・並等車(三等車)の2等級制の先取りだったようです。

上等車の定員は46人、並等車の定員は60人で、いずれもトイレとストーブが備えられていました。設備面からの並等車の印象は本州の三等車より立派な感じを受けます。(#^^#)

【一等客車】

明治25(1892)年9月、アメリカから輸入された開拓使号をモデルに初めて北海道で作られた一等客車「イ1」です。貴賓車として使用されました。(一等客車の車体表記・形式記号はイ)

DSC_8139.JPG

写真、い1:一等客車(小樽市総合博物館)

客車の構造は両端に乗降用にオープン・デッキと階段があり、座席の配置は鍵形(当時の一等座席車のうちその多くが、現在でいうロングシート座席)

DSC_8139-1.JPG 

さらに、ランプ、トイレとストーブを備え、定員は25人。

DSC_8139-2.JPG

【い1のその後】

明治39(1906)年、5130形、フコイ5130号の形式名を与えられ、その後は2等車に格下げとなり、5670形、フコロ5670号と改称されます。
大正15(1926)年、定山渓鉄道に譲渡され貴賓車となり、形式名を「コロ1」形になりますが、その後、普通車となり昭和30年頃まで豊羽鉱山専用線での通勤輸送用に使われました。
昭和38(1963)年、国鉄に寄贈され苗穂工場で復元されました。

【二等客車】

残念ながら二等客車を説明する為の復元車および資料が、今回は見つける事が出来ませんでした。判明したのは、車体表記・形式記号はロ。大正時代中期までは車内のスペースを広く使えることから、ロングシートが主流だったようです。これは想像ですが、後に旧二等車と旧一等車は統合されて新しい2等級制の一等車になった事からも、あまり違いが無かったのかもしれません。

【三等客車】

北海道博物館の鉄道エリアにある三等客車(等身大の車内模型)は、当時の車内の様子を音声(車内の会話)を流して再現しています。

DSC_8140.JPG

写真、等身大の車内模型(北海道博物館)

【落下式トイレ】

初期の鉄道にはトイレがなかったそうです。

明治6(1873)年3月、列車の窓から放尿したとして、東京裁判所から10円の罰金を告げられる乗客が出ました。その後も同様のケースがあったそうです。
明治22(1889)年4月、宮内省御料局長官の肥田浜五郎が、用をたすために停車場で下車、走り始めた列車に乗りそこねて死亡する事故が発生し、同年5月から東海道線にトイレが導入される事になったそうです。
明治13(1880)年、北海道の幌内鉄道の客車が、日本で始めてトイレがついた客車だそうですから、北海道の客車は先進的だったんですね。(あくまでもトイレに有り無しですが・・・)

順次、トイレのある列車が導入されますが、ローカル線に至るほぼ全線にトイレ付列車が走るようになったのは昭和初期です。しかし、当時の列車内のトイレは落下式トイレですから、これが新たな問題となりました。私もそんな列車の落下式トイレは記憶にあります。駅に停車中は使っちゃ駄目なんです。(^┰^;)ゞ

このような話は、「懐かしの鉄道遺産をたのしむ方法」って本に載ってました。

DSC_8141.JPG

落下式トイレが鉄道遺産なのかって?これも過去の遺物で・・・さすがに遺産じゃないかなと著者は書いてました。(#^^#)

【日本人の手による国産第2号の機蒸気機関車】

明治26(1893)年、鉄道庁神戸工場で作られた860形が、国産初の機関車です。
明治28(1895)年10月、北海道炭礦鉄道の工場で誕生したのが、「大勝号」です。形式名は「ト形30」で、ちょうど日清戦争に勝利した直後であった事から「大勝号」の名が与えられました。

DSC_8179.JPG

写真、(小樽市総合博物館)

【蒸気機関車の速度】

7100形の最高速度が50km/hでしたが、その後の完成度が高いといわれる蒸気機関車の速度を調べてみました。

C62形蒸気機関車、営業最高速度100km/h、日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機は129km/hを達成。小樽築港機関区に7両が配属されました。

C55形蒸気機関車、北海道最後の活躍の場は宗谷本線で、最高速度が100km/h、車体の外側を曲線的な鉄板で覆った流線型機関車も21両作られたそうですが、最高速度100km/hじゃ効果無く戦後に全て外されたそうです。そんな流線型機関車だったC55形30号機が旭川機関区に所属していて、廃車後、小樽市総合博物館に保存・展示される予定が、何と手違いで苗穂工場で解体されてしまい幻と消えてしまったのです。・"(>0<)"・

D51形蒸気機関車、営業最高速度85Km/h

DSC_8243.JPG

写真が無く寂しいので、我が家のNゲージを載せたく強引にD51形を振ってみました・・・w( ̄o ̄)w オオー!

【手宮-札幌間の運賃】

明治14(1881)年6月11日、手宮-札幌間1日2往(復混合列車)に増便。所要時間約2時間40分。上等客車定員46人、並等客車定員60人。そして、手宮-札幌間の運賃が上等=1円、下等=40銭。手宮-銭函間の運賃が上等=50銭、下等=20銭。

現在:小樽-札幌間の所要時間快速32分、普通50分。小樽-札幌間の運賃が640円。小樽-銭函間の運賃が360円。

当時の手宮-銭函間の上等=50銭、下等=20銭の紙幣価値に関しては、鉄道開通前の手宮-銭函間の客馬車が49銭だったようなので、それと比べると高くなく感じます。しかし、1円=1万円と考えると下等=20銭は高いのかも・・・この運賃は、客馬車を意識した分けじゃなく、品川-横浜間の仮営業の運賃表にならったそです。この頃の札幌の物価が、白米1升(1.5kg=45銭)、大工の日当(60銭)、酒1合(4銭)。

【道内の所要時間】

明治22(1889)年12月、幌内鉄道は北海道炭礦鉄道の経営となる。
明治23(1890)年1月、北有社が解散。この年から除雪体制を整え、札幌~幌内の区間が通年運行。
明治23(1890)年4月、手宮-札幌間の所要時間2時間5分。手宮-幌内間の所要時間3時間。
明治23(1890)年9月、手宮-札幌間(1日3往)の所要時間1時間35分。手宮-幌内間(1日2往)の所要時間2時間5分。

北海道炭礦鉄道の経営になり通年運行、所要時間の大幅な短縮が成されます。北海道炭礦鉄道の運輸規定は、石炭・貨物を主として、旅客は従としました。(運炭列車は1日4往復、旅客列車は1日2往復)

明治37(1904)年10月、函館-高島(現:小樽)間が開通。直通普通列車上下2往復が運行。所要時間12時間30分。

明治40(1907)年9月、旭川-釧路間の所要時間14時間。小樽-池田間の所要時間16時間20分。函館-札幌間の所要時間12時間。函館-旭川間の所要時間16時間15分。下富良野(現:富良野)-釧路間の所要時間11時間。

現在:函館-札幌間の所要時間(特急スーパー北斗)3時間30分、小樽ルート(普通利用)8~10時間(乗車7時間50分)。富良野-釧路間の所要時間(普通利用)5時間40分。

明治40(1907)年、南小樽-岩見沢間の線路複線化工事が始まり、5年後に完了する。

【青函連絡船の所要時間】

明治40(1907)年、イギリス造船所で進水式を終えた青函連絡船第1船の比羅夫丸(1523トン)試運転で18.1ノット(当時の事本では驚異的な速力)、所要時間4時間。これは昭和60年当時の青函連絡船の所要時間と変わらない。

【東北本線の所要時間】

明治24(1891)年、東北本線上野-青森間(約740km)を全通させる。(直通列車1往復)所要時間が26時間30分。
明治34(1901)年、所要時間が21時間50分。
明治44(1911)年、所要時間が20時間30分。

【上野-札幌の所要時間】

明治44(1911)年当時の線路図や所要時間などから、北海道へ移住する人が、上野-青森、青函連絡船、函館-札幌へ移動でき事が確認できました。単純計算で、上野-青森(所要時間が20時間30分)、青函連絡船(所要時間4時間)、函館-札幌(所要時間12時間)の合計36時間30分ですか。明治時代でも順調に乗り継ぎが出来れば1泊2日で、札幌に到着出来る事になります。

現在ならどれ位で移動可能でしょうか・・・上野-札幌を新幹線と特急を利用すると、上野(新幹線はやぶさ)-新青森(特急スーパー白鳥)-五稜郭(特急スーパー北斗)-札幌で、所要時間が9時間21分。23,610円(内普通乗車運賃14,470円)。多くの人は飛行機を使って移動するのでしょうが、新幹線と特急で10時間を切る事が出来ます。

明治時代と新幹線を比較しても短時間になったのは当然の結果ですから、現実的な比較で、上野-札幌を普通列車で移動すると、上野-八戸(泊)-青森-札幌、所要時間が35時間6分(乗車21時間32分)。18,110円。現在と明治44(1911)年当時の所要時間を比較すると大差無い事に驚きませんか?それだけ乗り継ぎに時間を要するという事ですね。

DSC_9024.JPG

そうそう、私が先日乗りました札幌-上野間のローカル列車の旅は、札幌駅(6時21分)-翌日に上野駅(19時04分)、累計距離数(1,347.5km)の所要時間は36時間43分でした。ちょっとだけ明治時代の人が1泊2日列車に揺られた気分を体験したかもしれません。

【移住者割引運賃】

講座で用いた資料は、大正5年の運賃表です。

三等客車で上野-小樽が、7円44銭と書かれています。移住者は割引運賃が適用され、3円72銭です。現在の羽田-新千歳空港の当日片道正規料金でも37,000円ですから、1円=1万円と考えると、移住者の割引適用と同じですから割引前の運賃は随分と高いですね。

三笠鉄道記念館に昭和33年の運賃表がありました。

DSC_9025.JPG

幌内-東京が三等客車で1,660円、現在の価値に換算すると10~20倍のようなので、15倍なら24,900円位かもしれませんが・・・ここで明治時代とは異なる3等、2等の表記が登場するのですが、昭和25(1950)年に日本で初めてリクライニングシートを備えた客車が二等車扱いで製造されますが、その後、リクライニングシートは急行列車以上の二等車の標準設備となり特別車両「グリーン車」となるようです。3等が普通車、2等がグリーン車って事の様ですね。

客車「スハネ25502」は、重量-等級-用途(寝台、食堂・・・)-型式-製造番号ですが、等級のイ・ロがグリーン車、ハが普通車を表すのです。(#^^#)

【鹿児島-札幌】

大正5年の運賃表には、最南端で鹿児島-小樽が、14円15銭(移住者の割引で7円8銭)です。鹿児島遠いですね・・・

明治45(1912)年、東京-下関間の特別急行列車(新橋駅を出発-大阪駅-終点の下関駅)所要時間は25時間8分。というのを見つけました。これ以上は手持ちの資料では分かりません。

先程と同じく現在を確認しておきます。鹿児島中央(新幹線さくら)-博多(新幹線のぞみ)-東京(新幹線はやぶさ)-新青森(特急スーパー白鳥)-五稜郭(特急北斗)-札幌、所要時間が16時間48分。47,570円(内普通乗車運賃25,810円)。飛行機じゃなくとも乗り継ぎが有れば当日に札幌に付けそうです。

こちらも普通列車を調べましたが、3泊4日の旅で何とか札幌に到着できそうな・・・鹿児島中央-糸崎(泊)-黒磯(泊)-青森-森(泊)-札幌、所要時間が75時間24分(乗車47時間21分)。32,360円

以上、北海道初の鉄道が開通してから、北海道内に鉄道網がある程度拡がった明治44(1912)年までの道内鉄道線路図と、本州からどの位の時間を要して移動して来たのかを調べてみました。検証結果としては、単純に所要時間を比べると明治44年当時と、現在のローカル列車の旅って同じかもしれませんね。

 


nice!(17) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 17